*モデルは写真のクリアカバーは付きのケースと特製ボックス入りです。
ラ・ミニミニエラ社代表のピエールジョルジョ・カッザーティ(Piergiorgio Casati)氏と現在チシタリアの商標と権利関係一切を所有するチシタリア・グローバルグループの主要メンバーで創業者Piero
Dusio氏の孫でもあるロチオ・デゥジオ氏のサイン入りのシリアルナンバー入りのカードとモデルの手入れにも利用出来るCisitaliaのエンブレムとロゴ入りの特製クロスも付属します。
※上手前のモデルは1/43スケールのCisitalia
202SMM(#179)と202SC
Cabrioletです。(*別売品)
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北イタリア・ピエモンテ州出身で軍服用のオイル加工布製造で成功した実業家でアマチュアドライバーとしてレースでも活躍したピエロ・デュジオ(Piero
Dusio)は1944年、トリノに自らの自動車製造会社Compania Industriale
Sportiva Italiaを設立しました。 直訳すれば「イタリアスポーツ工業会社」と言う名前通りに彼の目標は高性能スポーツカーを製造する事にありました。 後に先の社名の頭文字を繋いだ"CISITALIA"の名の元、フィアットの主任技師ゆえに戦争協力者として戦後すぐにはFIATに復帰出来なかった名エンジニアのダンテ・ジアコーザと同じくジョヴァンニ・サヴォヌッチの協力を得て1946年、FIAT500トポリーノのエンジンをベースにした小さなグランプリマシンD46(Dusio
46)を開発し、戦後復活したグランプリレースで1947年にはタツィオ・ヌヴォラーリ他の優秀なドライバーによって多くのレースで勝利を納めて鮮烈にデビューしました。 更に1947年にはジアコーザ/サヴォヌッチの設計によるFIAT1100エンジンをベースとした開発したレーシングカー、Cisitalia
202 Spiderで復活した過酷な公道レース「ミッレ・ミリア」に参戦しヌヴォラーリの手で並みいる大排気量車を凌いで総合2位を納めてレース後に202
Spider Mille Miglia、略してCisitalia 202SMMと称される車は一気にCisitaliaの名をヨーロッパに轟かせる事に成功しました。
そのCisitalia 202のボディデザインをピニンファリーナに依託してを高性能市販車として誕生したのがこの202GT(*202S
Coupe)でした。 戦後の自動車デザインの大きな影響を与えたボディと一体化したフロントフェンダー、滑らかで破たんの無い美しいボディラインは「走る彫刻」と称されて有名なヴィラデステ・コンクールエレガンスで金賞を納めた後ニューヨーク近代美術館が初めて行った自動車デザインの展示会「8台の車(
"Eight Automobiles")展でも絶賛されて同館の永久展示品として買い上げられました。 残念ながら手作りのオールアルミボディ故に量産は難しく、又その高価格故に1947年から1952年までの間に僅か170台(*クーペ153台、スパイダー17台)が作られたに留まりました。 このニューヨーク近代美術館収蔵モデルは1/18スケールを活かしてその優美なフォルムを内外共に美しく再現しています。
※モデル製造はイタリアの旧RACING 43を引き継いだAD MODELによるイタリア製レジンハンドメイドです。
総数67個限定製作品 Made by AD MODEL, Santhia(VC) Italy, 67 pieces limited
edition.
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